徳川慶喜

水戸の有名人は誰だ企画第二弾。
続いてはこのお方。
徳川 慶喜とくがわ よしのぶをご紹介します。

徳川慶喜

出典:bushoojapan.com

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府最後の将軍です。
江戸幕府第15代征夷大将軍であり日本の歴史上最後の征夷大将軍でもあります。

15代将軍の誕生

慶喜は1837年10月28日(天保8年9月29日)に、水戸藩主の徳川斉昭の七男として生まれました。
幼い頃から厳しい英才教育を受け、学問や武術、馬術などに優れていて、
「この子は必ず名将になる」と将来を期待されていました。

その才能が見込まれ、次期将軍の候補として
12代将軍である徳川家慶から養子縁組の話があり、
水戸家から一橋家の養子となります。

13代将軍家定の後継候補として、
紀州藩主の徳川慶福(将軍就任後に家茂と改名)と争いましたが、
敗れて、南紀派の井伊直弼(いい なおすけ)により隠居謹慎の処分を受けることになります。

井伊大老は一橋家への弾圧が仇となり、江戸桜田門で水戸の浪士に暗殺されます(桜田門外の変)。
謹慎を解かれた慶喜は1862年(文久2年)、家茂将軍の後見職に任命され、京都に向かいます。

1866年(慶応2年)将軍家茂が病死します。
大半は慶喜が将軍になると見ていましたが、本人は将軍になることを拒み続けたといいます。
しかし周囲の説得もあり、30歳の時に15代将軍に就任しました。

徳川慶喜

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勝負に出た大政奉還

しかし、勢いを増していた薩長の尊攘派は武力倒幕を決断し、内乱は避けられない状態にありました。

あらゆる状況を鑑み、慶喜はある決断を下します。
そうです。大政奉還です。
大政奉還とは政権を朝廷に返上すること。
しかしその本来の目的は、ただ政権を朝廷に返上するという消極的なものではなく、
政権を返上することで裏から政治を担う、という
まさに幕府最後の勝負に出る決断であり、
名を捨て実を取ろうとした行動でした。

1867年(慶応3年)、徳川慶喜は大政奉還を朝廷に提出します。
ここに265年続いた徳川幕府が幕を閉じたのです。

慶喜も将軍辞職を願い出ましたが、朝廷は認めず政務委託を伝えました。
全ては慶喜の目論見通り進んだのです。
大政奉還で倒幕の名目を失ってしまったのが薩摩や長州を中心とした尊攘派は
王政復古のクーデターという挙に出ました。
天皇の面前で開かれた会議で倒幕派が主導権を握り、
新政府の発足と慶喜の将軍解任と、徳川家の領地返上を命じたのです。

このクーデターの成功で勢いにのった薩摩藩は、倒幕を諦めず、江戸で狼藉を繰り返し
幕府を挑発します。
慶喜は話し合いでの解決を望んでいましたが、
幕府はついに江戸の薩摩邸を焼き討ちにし、大阪城からの京都進撃を決意します。

錦の御旗

1868年(慶応4年)、徳川軍一万五千は京都に向けて出陣します。
ここに鳥羽・伏見の戦いが勃発。
この時、数の上では徳川軍上回っていましたが
武器の質では、徳川軍が支援を受けたフランス製より、薩長軍のイギリス製のほうが勝っていました。

この戦いの勝敗を決めたのは「錦の御旗」でした。
これは天皇(朝廷)の軍であることを示す旗で、赤地の錦に金色の日像や銀色の月像が刺繍されていました。
この旗に弓を引くことは賊軍であることを意味したのです。

錦の御旗

錦の御旗の効果は絶大で、彦根藩を始めとする譜代でさえも徳川家を裏切り兵を引きました。
徳川軍は、大阪城へと撤退。
自分が賊将になったことに衝撃を受けた慶喜は戦いを放り出し、部下を見捨てて大阪から逃亡してしまいます。

尊王の気風強い水戸家では「朝廷に弓をひいてはならない」という遺訓があり、
さらに慶喜の母は有栖川宮家出身であり、慶喜自身、天皇家と関係が深かったのです。

江戸城、無血開城

鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸へ進軍しました。
無論慶喜は、徳川家存続、進軍を停止などを天璋院や静寛院宮の嘆願のみに頼り切っていたわけではなく、
自ら上野寛永寺で謹慎し、薩摩とも交流がある陸軍総裁勝海舟に全権を委ね、新政府軍の総督府参謀の西郷隆盛と交渉に当たらせようとしていました。

勝海舟

海舟は慶喜の寛大処分を願う嘆願書などを出していましたが、交渉を始める糸口さえ見い出せずにいました。

そんな3月5日のこと。

山岡鉄舟

幕臣の山岡鉄舟が海舟の元に訪れ、自分が使者となって捕虜としている薩摩軍の益満休之助とともに、駿府まで来ている西郷隆盛に直接手紙を渡すと申し出ました。
こうして隆盛と鉄舟との会見が実現します。
隆盛は鉄舟に、江戸城明け渡し、軍艦や兵器を引き渡すことなど7箇条の条件を鉄舟に示し、これを受け入れるならば徳川家存続に寛大な措置をとると伝えました。
鉄舟はおおむね了承したものの、慶喜の備前藩お預けだけは幕臣も納得しないため承服できないと主張しました。
鉄舟は島津が慶喜の立場になったならば、あなたもこの条件を受け入れられないはずだと迫ったといいます。

海舟は鉄舟からの一連の報告を受け、正式に交渉の場を持つことになりました。
総攻撃を食い止め江戸を戦火から救えるかどうか最初で最後の交渉です。
もちろん海舟は不退転の決意で臨むつもりでいましたが、予断は許さない状況でした。
そのため海舟は交渉が決裂した場合、新政府軍が江戸に入ると同時に、江戸市中に火を放ち、彼らの進路と退路を断ち切る作戦の準備をしていたといいます。

13日、海舟と隆盛の会談が三田の薩摩藩邸で行われました。
おもむろに江戸城総攻撃となれば、和宮の身の安全も保証できないと隆盛の痛いところをついて再考を促し、
翌日今度は江戸城総攻撃の無意味さを正面切って訴えました。
さらに海舟は対案もこちらから示します。
慶喜は隠居の上、水戸で謹慎、また幕臣たちの寛大な処置、兵器も引き渡しは一部というもので、総督府の案を踏襲しつつも緩やかな内容に変更しています。
交渉が決裂すれば海舟とて一戦やむなしとの覚悟でした。
遂に隆盛がこれを受け入れ、さすがに一存では決められないので持ち帰ると言いながらも、傍らに控えていた隊長たちに攻撃中止を命じました。

こうして江戸城の無血開城が決定したのです。

4月11日、江戸城は開城。
徳川15代265年の歴史は名実とともに終焉の時を迎えました。

最後の将軍となった慶喜は、その後徳川宗家の相続を認められ、静岡藩主となった徳川家達に従って静岡へと移ります。
それからは趣味の世界に没頭する余生を送っています。
特に写真に興味を持ち自ら撮影した写真が多数残っています。